小田上飛鳥の作品集

輻輳の森とは

「輻輳(ふくそう)」の意味

 ここ10年ほど、公募展に出品する大作のほとんどを「輻輳(ふくそう)の森」というテーマで制作しています。

 輻輳というのは、「ものが一ヶ所に集中して混雑している状態のこと」を指す言葉だそうです。IT用語や医学、生物学領域の用語として使用されることが多いです。普段の生活ではあまり目にしない言葉だと思います。

「輻輳の森・止まない雨」 F130号 アクリル・キャンバス  2019


心象風景としての「森」

 私の絵画は、まずは言葉から、そして物語から始まります。

 その物語のほとんどは自分の内側にある未消化のものたちで、浮かんでは消え、消えかかっては集合してを繰り返している何かです。

 いつも「これを描きたい」と思うものはたくさんあるのですが、それをうまくまとめられず断片を拾い集めて絵にしていました。頭の中がすっきりとクリアであることは稀で、いつも何かで散らかっている状態でした。その中を掻き分けたり潜ったりして感じたものを表現しようとすると、なぜかいつも森の中にいるような絵になります。そのうち、私の心の内は森の中のような場所で、生まれ育み朽ちてを繰り返して循環している場所なのだと感じるようになりました。

 漠然と森といっても、いろいろな側面があります。同じ日でも時間帯によって表情を変えます。日々を重ねれば草木や木々は成長し、葉を落とし種を結んで世代を繋ぎます。季節の中での恵みや試練もあります。それは現実世界で生きる私たちの内側で起きている感情の営みのようで、陽の当たる場所や暗く湿った場所などでそれぞれの感情が役割をもって息づいています。森は一度に見渡せる範囲以上に深く複雑に広がっていて、一度通った場所も時間が経つと痕跡を覆うように姿を変えます。

「輻輳の森」の中で、名前を付け続ける

 その森の中で、私はいつも迷子でした。

 鬱蒼とした中にも営みがあり、分かりやすく区画で整理することは叶わない森。どこまで行っても「何か」がある訳ではなく、どこまでも自身の心の裾野でしかありません。一つ一つに意味や繋がりはあるけれど、目に見えるものだけでそれらを理解することは難しく、すべてを把握することはできない場所だからです。

 寄せては返す波のように、その森には毎日たくさんのものが行き来して結論を出さないまま想い想いに漂っています。次々と新しい何かがやってきては居心地の良い場所を探して交錯していきます。

 私はそれをただぼんやりと眺めながら、ゴチャゴチャと集まる何かにぴったり当てはまる言葉を探します。単純に「嬉しい」「悲しい」という名の時もあれば、物語のように長い言葉の連なりになる時もあります。 

 このゴチャゴチャの集まる場所そのものにぴったりだと感じたのが、「輻輳」という言葉でした。私の内側は輻輳の森なのだと言葉に出来た時、散らかっていた頭の中に大きな地図が出来たようでした。それ以来、輻輳の森は一度では描き切ることができない大きな私のテーマとなりました。

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